「私たちは知らずに試されている」ヨブ記1章1-22節

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砧教会説教202022

「私たちは知らずに試されている」ヨブ記1122

 私たちは自分に災難が降りかかるとその理由を探したくなるのがふつうである。しかし、本来、人間はいかなる災いであっても、その理由、あるいは原因を探ろうとはしなかった。動物としての人間は、与えられた環境条件を受け入れるほかなく、それに対応できなければ、そこで滅んでいくか、あるいはその環境条件とは別の世界を探す旅に出るほかはない。最古の類人猿は、おそらくそうした脱出から始まる旅を開始したのだろう。やがて、彼らは単なる動物であることを超えて、環境条件それ自体を改変することを学んだ。そしてついに人間となった。すなわち、自然の中に生きるほかの動物を人間になじませて家畜にし、穀物や実のなる果物を栽培するために川の水の流れを変え、畑や田を開き、環境世界を自分たちに都合よく変えてきたのである。

 それでも人間は子どもの時分はいまだ動物的であるから悲惨なことでもそれを環境条件として受容してしまい、その理由を問わず、また責任を問うこともない。ただし、子供の時代の家庭での虐待が子どもにとって悲劇なのは、動物なら本能的に逃げるけれど、すでに人間となっている中での「子ども」はあらかじめ束縛されているので、なかなか逃亡できないのである。やがて成長し、自分も大人の人間となり、自分自身を見つめ、昔の出来事の意味を問い始めたとき、子ども時代の悲惨は「悪」や「犯罪」であったと了解し、新たに自分を作り直す必要に迫られたりする。この悲惨の度合いがひどければ、当然その人は病むであろう。

 ただ、ここで確認したいのは、人間は動物的側面からすると、出来事の意味を問うことより、目の前の現実に対応して生きるのが第一であるということだ。そして、おそらく多くに人にとって信じられないが、戦争も自然災害も昔は一緒くたにして、それに翻弄されるほかなかったのである。しかし、他方で人間はこれらの悲惨を自力で乗り越える努力を始めた。すでに述べた通り、文化(耕すこと)、文明(都市をつくること)によって人間の領域を自然的世界から分離し、その中で「合理的」に生きることを始めた。もちろん、ここでの合理性は近代の限定的な「理性」に基づくのではなく、もっと広い意味だ。例えば、自然的世界の諸力を人格化し、それらが持つ力と交渉して人間の領域に災いをもたらさないよう取引するといった、呪術的な対応も一つの合理性である。そしてこうした合理化を通じて、ほとんどの文化は自分たちの共同体を守ろうとした。さらに、自分たちの生と死についてもそうした諸力との関係のなかで了解しようとした。例えば輪廻転生という考え方は、すべての生命たちは生まれ変わり続けているというものだが、これは自然界のすべての生き物にはレベルがあってそのレベルを行ったり来たりしているのであり、高いレベルにいることができたのは、前世の善行の量にもとづくのであるとする。これはインドにおいて主流である。他方、自然的循環とは別に、人間の魂(その人の人格といってもよいだろう)は肉体の死後、それを離れ、祖霊となって霊界に存在し、常に生きている者たちの世界を見渡し、守り、時に祟るとする考え方も生み出した。これは儒教を中心に体系化されたが、東アジア世界はこの考え方を基本としている。この考え方に従えば、災いを引き起こす主体は自然の力そのものではなく、背後にいる祖霊であるが、するとこの祖霊は自然力を支配することになり、超越性が高いといえる。とはいえ、元は人間であるから、その祖霊を祀る人間たち(イエ)にしかその力は及ばないのであり、結局限定された力に過ぎない。やはり、本来普遍的に人間を超えているのは「自然」的世界であるから、自然の諸力の人格化を基盤して体系化された自然宗教(たとえば古代オリエントや日本の宗教)が人間の文化文明の領域の保全に応答するものである。

 しかし、そうした自然宗教とは一線を画する考え方も生まれた。人間の自立を前提としたうえで、つまり、古代オリエント文明を前提としたうえで、自然的世界(すなわち神々)との取引によって文明的世界を守るというのではなく、自然的世界も、そこから派生した人間的世界もすべて被造物、創造されたものとみなし、それ以前の「無」、何もない世界をイマジナリーに回復し、その無から世界それ自体を創造した超越的な主体を見出した、あるいはそのような主体を立ち上げたのである。それが旧約聖書の「神」であるから、これを日本の神々と同じように「神」と表記するのは完全に失敗である。すでに述べたように、自然宗教と祖先崇拝においてその対象をすべて「神」と呼んでしまう中で、世界の創造者である超越的な主体を「神」で表象することはできないのである。それゆえ、ここからは旧約の神を「創造の主」と呼ぶことにしよう。

 さて、創造の主体は創造された者たちに対して優位である。それはあらゆるものの支配者であるということでもある。突き詰めれば、私たちの世界のあらゆるもの、あらゆる事象、出来事はすべて神のなした結果である。すると、人間にとって災いとなることもすべて神の業である。そこで、人間にとって良いことも悪いことも創造の主の業であるなら、人間の側の思惑、つまり良いことを多く、悪いことを少なくしたいという願いを創造の主に願い出ることが必要となる。こうして再びかつて自然の諸力や祖霊にたいして呪術的な取引をしていたのと同じ形式で、この超越的な創造の主にたいする取引が始まることになるだろう。創造の主である以上、原理的に一人であるから、取引は一回的となる。もちろん他方において時間の循環を前提しているため、年に一回といった割合で儀式が行われることになるだろう。

 しかし、旧約聖書の創造の主はそのような取引に応ずる主体ではなかった。かえって、人間に自由を与えたのである。実はそれが先にのべた文化や文明の源泉である。ただし、旧約聖書の創造の主は、その自由は罪の結果としての罰の意味も含む。自由とは自分でどうにか生きていかねばならないということである。それゆえ、その使い方を誤れば深刻な災いを招来することになる。そうした深刻な災いを招くのは、人間の自由に基づくエゴイズム、自分さえよければよいという行動である。その結果は奪い合うこと、殺しあうことであり、その果ては、旧約聖書ではノア時代の洪水による人間の滅びという神の罰である。話は一気に現代に飛ぶが、今は洪水前夜、あのノアの時代に重なる。新自由主義とはエゴイズムの合理化であるが、これはすでに始まっているとおり、人間の同士の不信や敵意をあおり、自己の純粋化を目指し、他者を異物として排除することを徹底する。今般のコロナウイルスによる肺炎の流行は、そのことに拍車をかけることになるかもしれない。

 さて、旧約の創造の主はそのような人間の自由の破滅的性格を超えて、新しい段階を示した。敵意や排除のはびこる時代(エジプト第19王朝の時代)、その時代や場所を離脱し、あらたな法の下に相互に自由で主体的に生きる可能性を与えたのである。それが十戒や契約の書にみられる思想である。そしてこの法(律法、トーラー)に照らして、是か非かを判断し、生きていくことが最善とされた。

 以上が、古代イスラエルの宗教思想のあらましであるが、法に基づく共同体と個人の安寧を前提にしつつ、災いが生じたときには共同体は反省して、何らかの原因を探るだろう。それは法への違反を見つけることである。そしてその最も重要な違反とは、創造の主とその法を否認すること、それらを呪うことである。では、何らかの違反があったとして、それをどのように償うべきか。ただ反省して、「もういたしません」で済むのだろうか。いや、やはり済まない。違反には罰が必要である。その人間ないし共同体を具体的に罰することであるが、それを回避するのが賠償である。すると、結局は創造の主との取引ということになってしまう。イスラエルの宗教も超越的な創造の主を最高の支配者とする以上、犠牲をささげるという形式は結局保持された。

 しかし、他方でこうした犠牲による創造主との取引は無意味であり、真の悔い改めと与えられた法の順守と失われた権利や名誉の回復こそが実現されるべきだ、それこそが真の「犠牲」であるという見解が、例えばイザヤのような預言者や詩編5051編によって提示された。そしてこの考え方が主流になっていく。

 

 さて、本題に戻りたい。災いが降りかかった時、その原因を知る必要があるのはなぜか。知りたいと思うのはなぜか。それはその原因に対応する何らかの措置(原因の排除、あるいは賠償)をすることによって、災いの解消、あるいはこれ以上の災いが降りかからないようにするためである。そして自分や共同体の安寧を回復したいからである。そして今日の聖書のヨブもまた、そのような対応をしている。

 ヨブはウツの地の人である。この地は創世記2221節にはアブラハムの弟ナホルの子の名として現れる。この名にちなんだ地域がどこであるかは聖書からははっきりしないが、イスラエルのはるか東方の地であろうか。エレミヤ書2520節に「ウツの地の王たち」が言及されており、この時代にはウツは自明だったようである。哀歌421節にもこの地が言及されているが、なぜかエドムと並行して出てくる。要するにイスラエルの領域ではなく、異郷である。ここに住むヨブという王的人物をめぐる物語の始まりである。ヨブについては以前も取り上げているので繰り返しになるが、名の意味は「敵」である(外典の「シラ書」499節にはヨブなく「敵」とギリシア語訳されている)。すでに名前からして、先を暗示させる。しかし、このプロローグでは彼は「無垢な正しい人」とされ、一種のアイロニーが提示される。ヨブについてはエゼキエル書221420節にノア、ダニエルに並んで正しい人として言及されているように、相当古くから知られる伝説的人物である。著者はこの伝説的人物に託して物語を展開する。ヨブは王的人物であり、男女合わせて10人の子どもがあり、大変な財産を持ち、東の国一番の富豪であるとされている。

 唐突だが、息子たちがなぜか順番に宴会を開いていたという。大家族であり、息子たちは自分の家を持っている。宴会はとは飲んだり食べたりの席であるが、宴会という言葉は「飲む」ことを語源にしているので、酒の席である。それゆえ、ヨブはこの宴会が一巡りするごとに、息子の数に合わせた犠牲を「神」にささげるのである。息子たちが例えば酔っぱらって神を冒涜したかもしれないからだ。ヨブは先回りして、神の災いを避ける努力をしている。要するに「神」に対してあらかじめとりなしをしておく。実に用心深い人間である。原則的に神は恐るべき相手であるが、取引によって対応することのできる相手である。犠牲をささげれば、ひとまず安心というわけだ。これを「無垢で正しい」というべきか、抜け目ないというべきか、はそれぞれであろう。

 ここで「ヤハウェ」と神の使い、そしてサタンが登場する。天上の議会を主催するのはヤハウェである。ヤハウェはサタンにヨブほどの「無垢で正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」人はいないとほめる。サタンは問う。

「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。1:10 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。1:11 ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

ヨブは利益があるから神を敬うのであり、利益がなくなれば、呪うにちがいないという。ヤハウェはサタンのそそのかしに乗ってヨブを試すことにし、彼の財産をすべて奪ってしまう。財産にはヨブの息子や娘も含まれている。

 ヤハウェはヨブを信用しているとはいえ、そのためにヨブを痛めつけるとは何たる神であるか。神はサタンの問いかけを一蹴すべきであった。しかしヤハウェはサタンにヨブを委ねたのである。その結果はどうか。次々と起こる悲惨によってヨブは衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏す。嘆きの姿である。しかし彼はこの相次ぐ悲惨によってすべて失われたにもかかわらず、次のように言った。

1:21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

旧約聖書の信仰において究極の表現である。ここには神との取引、あるいはとりなしにも似た儀礼的行為の効果など無意味であり、それゆえこれまでの信仰、すなわち倫理的応報思想、正しく生きれば相応の幸福が与えられるはずだという漫然とした思い込みとは無関係に、実はヨブは生きていたのだということがわかる。ではなぜヨブは犠牲をささげてきたのだろうか。ヨブはこの時点ではじめて、神の絶対的支配の前では、こちらの無垢さや正しさなど最終的には無意味だと思ったのだろうか。この言葉にヤハウェは満足するのだが、この神の反応は改めて取り上げることにして、まず、ヨブの災難に理由がないということに注目すべきだろう。理由もなく、つまり神からの幸福を当てにせず、ただヤハウェを畏れることなどありえないというのが一般的な思いであり、常に信仰者は見返りを期待するものだというのがふつうである。しかし、ヨブの答えはそうではなかった。それにしても、与えるヤハウェも奪うヤハウェも同じヤハウェである、だから、私たちは裸で帰るのだ、という言葉は一体だれを満足させるのだろう。自分自身か、ヤハウェか。しかし、この究極の肯定の言葉は、ヨブのこれまでの人生の意味を無にすることでもある。いっさいが無に帰するのに、なぜ人は神を信じ、前を向いて生きることができるのだろか。

 おそらく、この悲惨自体に何らかの意味があるからだ。この悲惨を受容することによって、すなわち、歯を食いしばって「主の名をほめたたえる」ことでしか、世界と折り合って生きることはできない。世界とはすべて神の創造した「庭」である。その庭の一つの要素として、我々は生きているのであり、たとえ自分の子どもでも、家畜でも、それは自分のものではない。人間がそう思っているだけだ。私たちは何ひとつ、自分の意のままになるものは持ちえないということ。言い換えれば人間は「裸」であるほかはないのである。

 ヨブの物語は続いていく。究極の肯定にとどまり続けるのか。それ以上の何かを見出すべく新たに活動するのだろうか。ヨブは何も知らず、試されたままで満足なのだろうか。翻って、私たちはどうだろうか。限りある人生なのに、明日が同じように来る保証はないのに、漫然と生きてしまうことが常である。ヨブはそのような生き方を拒否し、「無垢で正しく」生きた。それにもかかわらず、予想外の悲惨を被る。そして究極の肯定を語った。彼はその無垢さや正しさをもって取引をしたのではなかったのである。「すでに」神の前に完全にひれ伏していたのであり、彼の犠牲は実は初めから感謝なのであった(と解釈したい)。

 プロローグの前半は淡々と進むが、彼の悲劇は人間のすべての悲惨を端的にえがいている。その一つ一つを掘り下げて問い、自らに重ねるとき、ヨブの答えはあまりに重いと言わざるを得ない。

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